■所在地:苫小牧市字勇払132番地38
■所有者:苫小牧市
■管理者:苫小牧市教育委員会
▲墓石をまつる勇払開拓史跡公園の様子
移住・開拓の先駆者「八王子千人同心」
勇払市街地のはずれに位置する史跡公園には、勇武津場所にかかわった会所関係の墓石9期10人分、八王子千人同心関係の墓石4基9人分、場所請負人関係の墓石2基7人分、その他不明の墓石3基3人分、合計18基29人分の墓石がまつられています。墓石群はかつて勇払原野に散在していましたが、戦後、勇払墓地に集合したもので、最も古いのは、八王子千人同心が勇武津に移住した寛政12(1800)年のもので、新しいものは、江戸時代最後の慶応3(1867)年に建立されたものです。
▲墓石をまつる勇払開拓史跡公園の様子
過酷な自然環境
寛政11(1799)年、蝦夷地が外国からの脅威にさらされたため、幕府は松前藩から蝦夷地を召し上げ直轄しました。翌年、八王子千人同心は蝦夷地の防衛と開拓を幕府に願いでて、組頭 原半左衛門(はらはんざえもん)を隊長に弟、新介(しんすけ)を副士として 同心子弟100人を伴って蝦夷地に入りました。▲八王子千人同心「野嶋 儀信」像(野嶋 和之氏 蔵)
半左衛門50人を引きつれて白糠へ、新介は勇武津に入り、警備、開墾などに従事しました。さらに千人同心の河西祐助(かさいゆうすけ) は原半左衛門とは別に役人の見習いとして妻子を連れて勇武津会所に入りました。
移住した同心たちの生活は苛酷な自然環境の中で困難を極め、2年目にして死亡する者16人、病にかかり帰郷する者や病の辛さから自殺する者など多数の脱落者を出し、4年で中止となってしまいました。
▲苫小牧市民会館前の広場に建立された開拓記念碑。赤子を抱いた梅の像が建てられている(本郷 新 作成)
半左衛門や新介は箱館奉行に転じ、残った同心は「地役御雇(じやくおやとい) 」として蝦夷地にとどまりました。蝦夷地開拓移住隊士の墓には、勇武津場所で亡くなった8人の同心と河西祐助の妻、梅(うめ)の 墓がまつられ、苫小牧開拓の先駆者として手厚く保護されています。
▲河西祐助と妻 梅(うめ)の 墓