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明治天皇行幸跡

明治14年 明治天皇の北海道行幸

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▲明治14年明治天皇行幸の経路「御通輦沿道略図(ごつうれんえんどうりゃくず)」(苫小牧市美術博物館蔵)



 明治14(1881)年、開拓使長官黒田清隆(くろだ きよたか)は開拓使十ヵ年計画が翌15(1882)年に終了することに伴い、明治天皇に情勢視察のための北海道行幸を陳情します。

 8月30日、明治天皇は当時の参議(太政官の官職の一つ)大隈重信(おおくましげのぶ)らとともに軍艦「扶桑」で青森から小樽に上陸、札幌・手宮間の幌内鉄道の「義経号」で札幌に入られました。



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▲明治天皇行幸の際に利用した御召客車「開拓使号」(苫小牧市美術博物館蔵)



 札幌では3泊4日の日程で豊平館に滞在し、開拓使庁(現北海道庁)、農学校(現北海道大学)、演舞場(現時計台)、麦酒製造所(現サッポロビール)、蒸気木挽場、煉鉄所、葡萄園、苗穂監獄、真駒内牧牛場、屯田耕作所など拓殖の実情を視察しました。

 9月2日に札幌本道を車駕(しゃが)※1で南下、島松駅逓(しままつえきてい)※2の中山久蔵(なかやま きゅうぞう)宅では水田育成状況を視察された後に昼食をとられ、漁を経て千歳駅逓にて宿泊しました。

 翌3日午前8時15分ころ美沢の開拓使美々鹿肉缶詰製造所で小休止、次いでウトナイ沿岸の柄沢鶴吉(からさわ つるきち)宅で小休止され、さらに一本松で小休止し、矢代町(旧樽前山神社参堂入口)の植田惣吉(うえた そうきち)宅で昼食をとられました。

 午後2時に植田宅を出発され、宮前町(錦多峰橋付近)の太田又兵衛(おおた またべえ)宅で小休止後、3時38分頃白老へ向かわれました。



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▲明治天皇行幸時の編列(苫小牧町史)



 大正8(1918)年4月、苫小牧村は町制が施行され町となり、当時の鈴木善治(すずき ぜんじ)町長は明治天皇の行幸を後世に伝えようと、小休止※3および昼食をとられた※45ヶ所に記念碑「御駐蹕之碑」(ごちゅうひつのひ)を建立しました。

 また、開拓使美々鹿肉缶詰製造所では、同所の井戸水が天皇に供せられたことから、昭和4(1929)年に当時の飯田誠一(いいだ せいいち)町長が跡地に「御前水」の記念碑を建立しています。碑文は北海道帝国大学初代総長佐藤昌介(さとう しょうすけ)の書です。



※1・・・天皇が行幸の際に乗る車
※2・・・駅舎と人馬を備え、宿泊と運送の便をはかるために設置されたもの。島松駅逓は国の指定史跡になっている。
※3・・・御小休所(ごしょうきゅうしょ)
※4・・・御晝行在所(おひるあんざいしょ)


 

行幸跡の石碑

 明治天皇の行幸を記念した「御駐蹕之碑」が市内5箇所に建立されています。また、字美沢には「御前水」の石碑が建立されています。石碑は現時も地域の方々の手によって、大切に保管・整備されています。
 

御前水・御小休所(字美沢)


▲御前水の石碑と説明看板



▲字美沢の御駐蹕之碑

   
 

御晝行在所(矢代町)

 

 

御小休所(字植苗)

  

御小休所(柳町)

 

御小休所(宮前町)




 

お問い合わせ

教育部生涯学習課
電話:0144-32-6752、0144-32-6756
フォームからのお問い合わせ(リンク)

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