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静川遺跡

■国指定史跡   ■指定年月日:1987(昭和62)年1月8日 ■所在地:苫小牧市字静川93番地7~11
(アクセス方法はこちらをクリック)


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苫小牧市の東部に位置する静川遺跡で、1982(昭和57)年、”環壕(かんごう)”という、それまでの縄文時代のイメージを一新するほどの大発見があり、1987(昭和62)年1月に国の史跡に指定されています。
※現在は保存のため埋め戻されており、見ることができません。

 

 

静川遺跡 全景



▼A地区拡大画像
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▼B地区拡大画像
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遺構と遺物についての説明はこちら

(各項目をクリックでリンク先へ移動します)
環壕
建物跡

落し穴
土こう
発掘されたもの


コラム①「縄文時代の幕開け」
コラム②「移動生活から定住へ」
コラム③「土器の発明」



 

環壕

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環壕はA地区の北西に突き出た丘を囲むように見つかっています。環壕の大きさは、上幅2~3メートル前後、下幅0.3~0.5メートル、最も深いところで2メートル弱、浅い所で1メートルを測り、断面はV字に近い形をしています。丘陵先端の崖状部分で途切れるものの、壕はほぼ地形にそってめぐっており、その長さは138.5メートルにも達しています。また、壕には丘陵の基部と先端部北側の2ヶ所に、幅1メートル程の出入口があらかじめ堀り残されています。壕の内部から出土した遺物は、覆土の上部からは縄文時代晩期の土器が多く、底からは中期の終末にあたる伊達山式土器とにぎりこぶし大の礫などがあります。




▲壕を調査している様子。白い点のように見えるのは、発掘作業員。写真は北側から撮影。


▲発掘調査前の環壕の窪み



▲セクションベルト(地層を確認するために、掘り起こさずに残したもの)は堆積状況を表しています


▲環壕の発掘調査の様子



 

環壕の謎

環壕内の建物跡
▲環壕内の建物跡 
              


▲出入口を調査する様子

環壕には二か所出入口が設けられ、内側には2軒の建物跡があります。建物跡と環壕から4千年前の同じ特徴を持つ土器が見つかり、同時に使われていたと考えられます。

▲左が環壕から出土した土器、右が環壕内の建物跡から見つかった土器。両方とも同じような特徴をもっている。


▲復元された土器

環壕といえば、本州の弥生時代の環濠集落が知られています。内側に何十軒もの家の跡があり、ムラを守るための防御施設といわれています。それより二千年以上も古く、北海道で発見されたということで注目を集めました。

静川遺跡で発見された環壕内には、2軒の建物跡が見つかりましたが、炉がないことに加え、遺物もほとんど見つかりませんでした。ところが、B地区にある同じ頃に使われていた住居跡には、炉やたくさんの土器、石器が見つかり、日常的に生活していた様子が伺えます。

このことから、環壕内は普段使うことのない特別な「聖域」や「マツリの場」、「儀礼や祭祀の場」などに使用されていたと考えられます。日常と非日常を区画するため境界として環壕が作られたと考えられています。

静川遺跡は、これまで知られていなかった
縄文人の精神的な営みや暮らしの様子を垣間見ることができる重要な遺跡とされています。

 

縄文人の大土木工事


▲作業員が発掘する様子

環壕の上幅は2~3m、下幅は30~50cm、深さは1.8mあります。今でこそ、パワーショベルなどの機械を使えば、環壕づくりも簡単にできますが、縄文時代は木の掘り棒や石斧ぐらいしか、地面を掘る道具はありません。それを使って、固い地面を掘っていきます。
 


溝も深くなってくれば、掘った土を外に出さなければならなくなります。土を入れるカゴのようなものも必要になってきます。少しずつ土を掘り起こして、カゴに入れ、上にあげる。大変な重労働です。何人かが協力して作業していく必要があります。完成するまでに、多くの日数や人手がかかったことでしょう。静川縄文人が環壕づくりに注いだエネルギーの凄さをみる思いがします。

縄文時代の土木工事の跡は全国各地でみつかっています。それには、組織的な共同作業が必要で、縄文社会はそれらを成しとげることができるほど、充分に成熟した社会だったことが分かります。機械力でも、技術力でもなく、縄文社会に内在する力、文化力によって、これらの土木工事は完成したといえます。静川遺跡の環壕も、縄文時代の文化力を象徴する一つの記念物(モニュメント)といえます。

 
 
 

建物跡


▲A地区の建物跡の遺物出土状況


▲B地区の調査の様子


▲B地区の住居跡の遺物出土状況


▲B地区の住居跡の調査状況


▲B地区の住居跡の調査状況

縄文時代の住居は、主に地面を掘り込んでつくる竪穴式です。苫小牧でもたくさんの住居跡が今までに見つかっていますが、平面形が5~6メートルくらいの円形または楕円形をしているのが一般的で、たいていは内部に炉(常時火をたいている所)があります。

A地区で発見された建物跡は、環壕の内側の丘陵先端に2基が隣接しています。大きさは、6.3×5.5メートルの不整円形で深さ25cmのものと、8.5×6.7メートルの楕円形で深さ20センチのものがあります。両方とも炉がないのが特徴で、柱穴もはっきりしません。大きい方の建物跡からは、伊達山式土器と石器が少量出土しています。小さいほうの建物跡の床面から土器は出ていませんが、おそらく二つの建物跡は同時期と考えてよいでしょう。これらの建物跡が廃絶された跡の窪みに、縄文時代晩期の焼土跡や土こうが形成されており、それらと同時期の遺物が密集していました。

B地区からは、環壕の頃と前後する住居跡が33軒見つかっています。内部の床に炉をもつものも多く、多量の遺物とともに日常的に生活した様子を知ることができます。

 


▲墓の様子

B地区内のA地区との境界付近でみつかったもので、墓の中にまかれるベンガラ(赤色顔料)が底面から確認されたのみで、人骨副葬品も見つかっていません。縄文時代のものと思われますが、時期は不明です。
 

落し穴


▲住居跡と落し穴


▲縦長の落し穴


▲楕円形の落し穴


▲落し穴を調査する様子



▲沢に並んだ落し穴跡

落し穴はシカなどの動物を捕獲する目的で作られたと考えられます。苫小牧ではほとんどの遺跡から見つかることから、当時の人たちが、弓などとともに落し穴を利用した盛んな狩猟の様子が創造できます。落し穴には、平面形が2~3メートルで細長いタイプと、2メートル以下の楕円形タイプがあります。深さは1.5メートル前後で、人がやっと入れるような狭いものもあります。

A地区ではこの二つのタイプがみられます。半数以上が北東の沢に集中しており、沢筋に長軸を直交させて並んでいるのが特徴です。B地区では、楕円形タイプの底に、小さな杭穴を持つ例がありますが、A地区ではみられません。また、B地区からは住居跡と重複している例がありますが、これは伊達山式期の住居の跡より古いことがわかりました。


 

土こう


▲土こうの様子

地面に掘られた穴を土こう(どこう)といいますが、形や大きさなどさまざまで、いろいろな用途があったと考えられます。
A地区で発見された土こうは、環壕のある丘陵上に多く、特に建物跡とその周辺に小型のものが集中しています。これらの大半が縄文時代晩期のものです。


 

発掘されたもの

縄文時代早期から続縄文時代までの遺物180,000点が静川遺跡から発見されました。特殊な遺物では、イモ虫形をした土製品や飾玉なども出ています。


▲出土した土器


▲出土した土製品


▲飾玉の発掘状況


▲飾玉の出土状況


▲石で囲った炉の跡


▲出土した縄文時代晩期の土器


▲発掘した土器を実測する様子


▲発掘された石斧


▲発掘された砥石


▲発掘された特殊な石片



 

コラム①「縄文時代の幕開け」

今から11万年前、地球は最後の本格的な寒い時期、氷河期を迎えます。地表は氷で厚く覆われ、海水面が下がり、陸地が広がり始めます。

7万5千年前、北海道は大陸と陸続きとなり、マンモスやヤギュウ、ヘラジカといた大型動物が北海道に渡ってきます。それを追って、人間達も動き回っていました。大型の石ヤリを手に、エゾマツやアカマツの林が点々とする大地を獲物を求めて、移動しながら生活していました。苫小牧でも、およそ2万年前の人が残した石の道具(石器)がみつかっています。

1万5千年前になると、気温に変化がみられるようになります。氷河期が終わりを告げ、暖かい時期の始まりです。1万年前以降さらに、気温は上昇します。

暖かくなると、エゾマツやアカマツの林にかわって、クリやクルミ、ドングリなどの木の実のなる森が広がってきます。また、マンモスなどの大型動物にかわり、シカやキツネ、ウサギといった中・小型動物たちが森の主役となってきます。動きの速い動物たちを狩るために、弓矢が使われるようになります。弓矢の使用も本格的となります。新しい時代、縄文時代の幕開けです。
 

 

コラム②「移動生活から定住へ」

土器の発明、弓矢の使用とともに縄文時代を特徴付ける出来事に、家を建てて住むということがあげられます。それまでは、獲物を求めて移動する生活でした。暖かくなり、周りに食べ物が増えてくると、移動しなくて済むようになります。

縄文時代の家の多くは、地面に穴を掘って床をつくり、柱を立てて、屋根をかぶせたものでしたが、その家を中心として、狩りや漁に出たり、木の実をとったり、土器や石器を作ったりという生活が始ります。すると、身の回りの自然を観察することができるようになります。動植物に対する知識も増え、様々な資源の利用が可能となってきます。

また、移動する生活では、老人は、次第に家族と一緒に行動することが難しくなってきます。家族が生きるためには、別れのときがやってきます。定住することにより、老人は死の間際まで家族とともに暮らすことができるようになります。親は食料を得るために出かけていきます。孫と家に残った老人は、自分の知識や経験を孫に伝えます。孫が大人になって親の手伝いをするようになると、この知識が大きく役立ちます。

このような定住は、多様な食料の利用のを可能にしただけでなく、文化や伝統を次の世代に伝えるという、縄文の文化力を蓄えるために欠かせない出来事だったといえます。



 

コラム③「土器の発明」

粘土を素材とする土器は焼くことによって、水に溶けない物質に変化させるという、人類が初めて化学的変化を応用した革新的な出来事といわれています。また、それまでの暮らしを一新するという社会的効果もありました。

それまで食べ物といえば、動物性のものが中心で、生のままか、焼くか蒸し焼き、乾燥するといった方法で食べられていました。気温が暖かくなり、木の実や山菜のなる森が広がってきます。土器は、それら植物性のものを食料とするのに大きな役割を果たします。

土器は最初、ナベやカマと同じように煮炊きに使われました。土器の表面や内面に黒く付着している煤が、それを証明しています。ドングリや山菜は生のままだと固かったり、苦かったりと、食べられるものではありません。水に漬けたり、煮ることによって苦みもとれ、柔らかくなって食べることができるようになります。また、生のままだと腐ってしまいますが、煮ることによって保存ができるようになります。動物性のもののほかに、植物性のものが食卓をかざるようになります。肉や魚貝類のスープなど新たなメニューも加わり、食糧事情が安定してきます。食べ物の種類が増えてくると、栄養状態も良くなってきます。寿命が延び、人口も増加し、定住が進み、ムラが出来上がってきます。

土器は自由な造形により、様々な表現が可能であるという文化的側面ももっています。全国各地で特色ある土器がつくられています。縄文文化を代表するといわれる理由がそこにあります。


 

静川遺跡へのアクセス

所在地:苫小牧市字静川93番地7~11

苫小牧市街地から車で約40分の場所にあります。
(画像をクリックで拡大します)
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行きと帰り、それぞれ一方通行になっていますので、ご注意ください。
(画像をクリックで拡大します)
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■行き

①国道235号線沿いに案内看板が立っています。
日高自動車道の下を通り抜けます。約2km先に静川遺跡があります。



②通り抜けたあと、一方通行のため左側に曲がり、道なりに進みます。


③一つ目のT字路は直進します。


④二つ目のT字路を右折します。

右折し、約900m先に静川遺跡があります。


⑤十字路は一時停止し、直進します。


⑥静川遺跡に到着しました。
看板横の遊歩道から遺跡上に登ることができます。
※遺構は保存のため埋め戻されており、現在は見ることができません。



■帰り
⑦帰りは、十字路を一時停止し、左折します。
あとは、道なりに進むと①の看板のところにでます。


 

お問い合わせ

教育部生涯学習課
電話:0144-32-6752、0144-32-6756
フォームからのお問い合わせ(リンク)

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